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雑記帳.WEB

雑多なことを雑然と。

天体会議(長野まゆみオマージュ)

 

 数年物の古いノートを開くと、セピア色に色褪せた写真が一枚、ひらり、と落ちていった。仏蘭西製の万華鏡(カレイドスコウプ)のように色とりどりの思い出が瞳の奥に幾何学的な模様を描く。

「何を見ているんだい。」

 不意に後ろから木蓮が声を掛けてきた。銀貨は軽く彼に目配せをし、それから再び写真に目線を落とした。

「兄の中等部時代の写真だ。」

「紅緒さんの。」

 木蓮が銀貨の手の中にある写真をのぞき込むと、そこには銀貨の兄である紅緒の姿が映っていた。学生特有のきっちりと調えられた襟元、それでいて遊び心が窺える外套の着こなしは、まさに紅緒のそれであった。

「髪が長い。」

「昔はこのくらいの長さが流行っていたんだよ。」

「ギターを持って二人で行った横町の風呂屋について歌いだしそうだな。」

「そこまで昔の写真ぢゃないよ。安室奈美恵狂(アムラー)の時代だよ。」

「手振反復横移動舞踏(パラパラ)の時代か。」

 木蓮は銀貨から写真を受け取り、長椅子に横になった。アーチ状の窓から差し込む光に照らされて、写真は薄く透けて見える。

 学校の音楽堂は二人のお気に入りの場所だ。ロココ調の装飾や飾り硝子、そして何より巨大なパイプオルガンが二人の心を魅了した。12時になるとパイプオルガンは時報を奏でる。モンテヴェルディ夜想曲だ。白昼堂々と夜想曲を奏でるその感性(センス)がどことなく可笑しくて、ついそれを聴きに足を運んでしまうのだった。

「それにしても、そのノート、どうやって手に入れたんだい。」

 木蓮は面白そうに笑みを浮かべながら銀貨の顔を覗き込んで尋ねた。

「昨夜から兄は外泊していてね。毎度のことで腹が立ってしまって。何か兄の弱みでも握ろうと思って部屋を物色していたら見つけたのさ。」

「個人秘密(プライバシー)の侵害だぜ。」

「でも、君も面白がっているだろう。」

「当然。さぁ、じっくりと中身を読もうぢゃないか。」

 二人は互いに顔を見合わせ、噴き出した。これからあの堅物の兄の秘密を垣間見るのだ。これほど愉快なことはない。兄に放置遊戯(プレイ)され過ぎた銀貨は少しばかり性根が曲がってしまった。そんな銀貨の友人である木蓮もまた、どこか変わり者なのだ。

 色褪せて手垢の付いたそのノートは、紅緒がずっと大事に引出しに仕舞っていたものだ。銀貨は何度か何が書いてあるのか尋ねたが、明確な答えは返ってこなかった。しつこく質問すると紅緒は不愉快を顔全体で表して、銀貨を蔑視した。その表情に銀貨は酷く傷付き、同時にいつか必ずあのノートの中を見てやる、と、決意を固くしたのだった。そんなノートが今、自分の手の中にある。是ほどまでに高揚することは滅多にない。

 銀貨は興奮を抑えながら、1項めを捲った。

 

『ゴリラの鼻くそって塩味?』

 

 銀貨は慌ててノートを閉じた。一体何だ、今のは。心臓の鼓動が止まらない。あまりにも一瞬の事だったため、木蓮はその一文を読めなかったようだ。

「どうしたんだ銀貨。顔を青くして。早く読もうぜ。」

「だめだ。」

「どうして。いいぢゃないか。貸して。」

 銀貨は木蓮の手を振り払い、音楽堂の出口へと歩き出した。どういうことだ、ゴリラの鼻くそって何だ、そんなの塩味に決まっているだろう、いや、もしかしたら夢のように甘い…いや、そんなはずはない、第一、兄の性格からしてこんな馬鹿げた事を書くわけがない。競歩選手並みの歩調で進む銀貨を、木蓮は走って追いかけた。

「待てよ、銀貨。」

 あと数歩で音楽堂の扉へ到達するという所で、木蓮は銀貨に追いつき、彼の手を取った。手首から伝わる銀貨の脈拍は早鐘のようだ。額には薄っすらと汗も滲んでいる。

「どきどきしているな。鼓動が恋のダイヤル6700並に早いぜ。」

 そう言って木蓮は銀貨の胸に左手を当てた。右手は彼の手首を掴んだままだ。静かな時が流れる。激しく律動(リズム)を刻んでいた銀貨の鼓動は、しだいに落着きを取り戻していった。

「ありがとう木蓮。落ち着いた。」

 銀貨は優しく木蓮の手を離した。木蓮は微笑を浮かべ目を逸らし、銀貨の持つノートを一瞥した。

「ぢゃあ、ノートを見せてくれ。」

「それはだめだ。」

 銀貨は頑として言い放った。その何時にない彼の迫力に気圧されたのか、木蓮は言葉を繋げられなかった。と、背後から力強い大音量が鳴り響いた。モンテヴェルディ夜想曲。もう正午のようだ。

「午后だ。朱鷺彦たちと昼食の約束をしていたんだった。」

 木蓮は慌てて食堂へ走っていった。途中、振り返って、

「銀貨。昼食の食券が欲しかったら、そのノート見せろよ。」

 と、叫んだが、銀貨は頑として拒否した。木蓮は困惑した表情を浮かべながら音楽堂を後にした。

 

 木蓮が立ち去った後、一人残された銀貨は再度動揺していた。先ほど目にしたあの一文は何だったのだろうか。普段の紅緒は常に冷静で、銀貨が好きな鉱石や天体、動物なんかには全く興味がなく、政治や社会事情、とりわけ軍事関連についてばかり考えているような堅物だ。その兄が、ゴリラ。鍵付きの引出しに大切に仕舞っていたノートの1項めにゴリラと書くなんて。しかも内容が内容だ。内容が無いようとは、まさにこのこと。

  銀貨は大きく深呼吸した。木蓮には悪いことをしてしまった。木蓮は友情をおざなりにすることを酷く嫌うから、僕の事を嫌になってしまったかもしれないな。そう考えると、深呼吸が大きな溜息に変わった。しかし、この兄の醜態を彼に晒す訳にはいかない。木蓮は銀貨の兄である紅緒のことを慕っている。そしてまた紅緒も、銀貨には一切関心がないにも拘らず、木蓮のことは何かと気に掛けているのだ。この事もまた、銀貨の兄への劣等複合(コンプレックス)を増幅させていた。

 銀貨は紅緒のノートに手を掛けた。先ほどは何かの見間違えだったかもしれない。いや、そうに違いない。音楽堂のステンドグラスに祈りを捧げて、再び項を捲る。

 

『ゴリラの鼻くそって塩味?』

 

 銀貨は絶句した。呼吸が荒くなる。急に空気が薄くなったみたいだ。ゴリラに殴られたかのように頭がガンガンする。目の前が暗くなるのを何とか堪えながら、次の項を捲る。

 

『オレは塩味!』

 

 気が遠くなるのを感じた。いつか銀貨の叔父が遠い街へ旅立つ時にくれた碧玉(アクアブルー)のことを思い出す。あの時叔父は碧玉を銀貨に差し出して、これから20万里離れた場所へと征く、もう帰ってこないかもしれないと言っていた。銀貨は碧玉に夢中で叔父がどこへ行くのかまでは聞いていなかったが、今となってはそれが悔やまれた。叔父は本当に二度と帰ってこなかったからだ。銀貨の意識はそんな叔父の元へと逃避行しかけていた。オレは塩味って、誰もそんなことは聞いていない。知りたくなかった。そもそも、人間なら大抵塩味なのではないのか。遠のく意識を呼び戻して、銀貨は何とか次の項を捲った。

 

『大ニュース!ゴリラの鼻くそを売っている動物園があるらしい!絶対行こう!旅費を貯めなきゃ!ルンルン!!』

 

 確かに一時期紅緒はアルバイトをしてお金を貯めていた。銀貨はなぜ貯金しているのか尋ねたが、例によって理由は教えてくれなかった。ゴリラの鼻くそを買いに行くための貯金だったのだ。長年の謎が解けたが、釈然とするわけがない。

 

八木山動物公園でゴリラの鼻くそ入手!今から食べるよ!楽しみ!』

 

『結果報告。ゴリラの鼻くそは甘かった。』

 

『自分の鼻をほじってからゴリラの鼻くそを食べると自分がゴリラになったみたいだ。大発見!』

 

『ウホホウホホウキャホーーー!!ウホウホ!!ウッホーーー!!』

 

『一瞬ゴリラになっちゃった!な~んちゃって!ウホ!あ、残りゴリラが出ちゃった。』

 

 

 銀貨はそっとノートを閉じた。表紙の次の項に紅緒の写真を挟む。兄はまるで万華鏡だ。見る角度によって全く違う顔を見せてくれる。今まで自分が見てきた兄は、万華鏡の一つの図柄でしかなかったのだ。意識が遠のく。瞼の裏に南十字星ポラリス)が見える。そうだ、確か叔父は南十字星の見える所へ旅立ったのだ…。

 

 気が付くと銀貨は音楽堂の長椅子で横になっていた。寝てしまったようだ。隣には木蓮が眠っている。いつまでも昼食を摂りに来ない銀貨を心配して戻ってきたのだ。ステンドグラスの色鮮やかな光がパイプオルガンの銀管に反射して幻想的な灯りを演出する。この灯りは今度の音楽祭の時に使えそうだな、と思いながら、銀貨は午后の木漏れ日を眺めた。ふと見ると、例のノートが見当たらない。

「そうか、夢だったのか。」

 銀貨はあえて口に出して言った。そう、すべては夢だったのだ。自分にそう言い聞かせ、音楽堂の外を眺めていると、兄の姿が目に入った。外泊はしているが学校には顔を出しているようだ。銀貨はこの日一番の安心を覚えた。紅緒はいつも通りの顔をしている。冷徹な、銀貨を蔑むような目で此方を見ている。そのことが不思議と嬉しかったのだ。

 

 

 

 

 

長野まゆみ『天体議会』のオマージュ